首吊り芸人は語らない。 RSS

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Jan
16th
Mon
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クリスマスってなんだかな。街中がキラキラしだしてみんな浮き足立って変な気分だった。乗っかっていたし、まぎれこめていたと思うけれど。
24日のことを書く。昼過ぎに駅で待ち合わせて、私のうまれた場所の近くへ行って、なんてことのない雑貨屋だとか本屋を眺めたあと、また駅に行った。ずっと乗りたかった電車に乗った。いつも見ているだけの赤いラインの入った車両。顔がへんに現代的でくすっとした。街中をぐーんと進んで橋をいくつか越えて終着。時速126kmの夢。そのまま引き返して日が暮れた。地下のライトも非日常だった。
都心に戻ってきてもまた電車。JRでも京葉線なんてふだん乗らないし新鮮。千葉のポートタワーまで行って夜景を見た。飾り物のような都市の姿に、おおげさでなく胸が震えたとおもう。好きなひとと、恋人と視ているからという理由で感動したわけではなくて、血や肉をおもうように、延々と続いてきたひとびとの命の流れをおもった。生きていると。くだらないけれど、ビルも家も車のライトも工場の明かりも、じーっと東京湾を眺めているクレーンのかたちも、なんだかとても小さくて、生きているなあと。あっとうされてしまった。平坦だったこの場所に折り重なり降り積もってきたものについて。こっそりと息をしながら幻のようだなあと、感じた。もちろんとなりにいるひとのことも考えたよ。だまってついていくだけの私だからひたすらにリアクションはオーバーでね。ずーっと、どく、どくん、っていうのが手のひらから脈々とひびくのがわかって、それはそれで神秘的でした。すべて絡み合っていて自分たちも部品なのに。こわいな。こわいし、奇跡的だとおもうし、そして、とてもとても幸福だとも。なにか大きなものに包まれながら些細なよろこびに頬が緩むこと。わすれられないだろうな。私の表情をたしかめると恥ずかしそうに笑った。全然きれいじゃない指先ですこし触れた。ここでもう、だめだった。もうだめなんだ。わすれられない。
Oct
4th
Mon
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 兄さんに会った。健康?って訊いたら、健康だよって言ってた。よかったねって言った。おまえはどう、って訊かれて、健康だよって言ったら、そう、って言ってた。
 兄さんと昔の話をした。浮遊感があった。傷つきながら喜ぶような、変な気持ちだった。俺はおまえのことそれなりに好きだよ。でもそれは、共有しているってことだけなのかもしんないんだよ。おまえが覚えているから俺は忘れられるのかもしんないんだよ。おまえが許していないから俺は許せるのかもしんないんだよ。おまえはそれがどのくらいつらい?って。
 つらくなんかないよ、すこしも。ねえ私たちは、私たちにこれから起こることのある、別々の不幸な出来事に、お互いそれなりに同情的になれるのかな、って言ったら、兄さんは変な色に染まっている頭を後ろにぐっぐと傾けて、ぽとぽとと黙って、それから、同情するよと言った。やさしい言葉だと思った。私は頭が真っ白になったから、うんってしか言えなかった。
Feb
12th
Fri
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白菜買ってくるから米炊いておいてくれ
っつって
スーパー行って
帰っても

こいびとが
ずっとごろんごろんしていたので
「なまけものめが」
みたいにぶつぶつ言っていたら

炊飯器から
いつの間にか
湯気があがっていて

こっそり米を炊いたのが
ばれないように
炊飯ランプを
歯みがき粉で見えないようにしてやがった!


なんだかとても
感動して

ご飯がおいしかった

「あんたは偉いな」
って何度も言って

たとえばこれが
如何なる状況だとしても
いつだって心は豊かでいたいと思った

Feb
8th
Mon
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某陸橋が見える展望台で、鉄ヲタが突然
「これから電車が来ます。撮影に入りますので、皆さんお静かにお願いします!
ハイビジョンで撮ってますから! お願いします! ちょっとそこ、話しないで!」
と勝手に仕切って勝手にビデオで撮影し始めた。
終わった後、「皆さんのご協力で良いものが撮れました!」とか高らかに宣言
ほんと何なんだあの人たち
Feb
3rd
Wed
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 ところでこのところ三回に一回深呼吸をしないとうまく息ができない。普段は八回に一回くらいでいいのだけれど。いきるため真剣に呼吸をしていたら、「ため息ばっかりついてると幸せが逃げちゃうんだぞ!」って言われた。ちょっと呼吸をするのに一生懸命すぎて返事ができなかったけれども、この肺が今すごいいきおいで不幸だ、と思った。
Feb
2nd
Tue
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 にゃー。この頃はあまり景色を見ている実感がなく、電車でふた駅の往復のあいだ瞼はきっと閉じてるのでしょう。いちまいにまいさんまい、薄膜が降りている着込んだ服のぶんだけ冬はあたたかい。空気にあたる鼻だけつめたい、お耳にはアワーミュージック、このところずっと。
 通勤中や休憩時間に本を開くことのなくなり、鞄に本を一冊もしのばせずに外出してしまう、そうすると、ふところに重力を感じないのでいつもなんだかフワフワとする。電車や食事のわずかな待ち時間、ふとした隙にわりこんでくる読みかけの文章の余韻のところや栞の位置やその残量、かれらに見張られないぶん緩んだ部分、粉や液や洋服の柄などが、すいた頭をもたげてる。
Feb
1st
Mon
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必要なのは盲目だし、それでも必要なのはひかりだった。
Jan
31st
Sun
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H&Mの安い服の山を見ていると、「好き」にはじまる自分の中の「こだわり」みたいなのをすっぱり捨てて、全体のバランスのみを考えてサクサク全身コーディネイトして服を買うほうが、オシャレになれるんじゃないかという気がしてきます。
Jan
28th
Thu
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ぼくは、前もって構想を立てたり設計図をつくったりは出来なくて、考えながら書き、書きながら考えることして出来ない。同じ事を少しの言い換えで何度も書き込んで、考えをその都度、何度も確認しつつ書き進めてゆくので、例えばこの日記の文章でも、原稿などでも、推敲して後から不必要だと思う部分を削ったとしても、文が冗長だったり、日本語として変だったり、繰り返しが多かったりという感じがどうしても残ってしまう。一度定義されたものはその後ずっとそのままで進んで行く、というような文章をどうしても「簡単過ぎる」と感じる。キーワードを、あらかじめ確定されているものであるかのように取り扱って、それを組み立てているだけのものを思考とは思えない。定義されたものの意味が、反復され、吟味されるうちにズレたりブレたり変化したりせざるを得なくなるということが「考える」ことだと思う。何かを確定させることにはあまり興味がない。

考えることは、問題を解くことではなく、問題を立てる(立て直す)ことだ、というのは、よく言われることではあるが、きわめて重要なことだと思う。流通しているキーワードを用いて、共有されている問題について考えるという時、もう既に、そのキーワードや問題が帰属している思考の構えや形にハマってしまっている。その次元でいくらこねくり回しても、あまり意味はない。本来、ある言葉の意味は、それが使われている文章の流れのなかでしか読み取ることが出来ない。そこを離れて定義することは出来ない。例えば、「象徴界ってどういう意味?」と言われたとしても、それを言い出したラカンからして既に、時期や場所によってその都度、使い方にブレがあって、きっちりと確定した定義が出来るわけではない。ラカンの難解さは、その理論の難解さである以上に、言ってることがその都度違う、ということにも起因する。それは、ラカンにとって重要なのが、世界の探求であって、理論の完成ではないからだろう(それはラカンにとって常に臨床が問題だったことと切り離せないだろう)。そこにあるのは、ラカンが考え、発見し、考え直し、再発見する、その思考の持続、その深度と跳躍であり、ラカンを読む時に重要なのはそれを掴むことであろう。理論の整合性は事後的に発見され、調整されるものでしかない。考えることが要請する正確さは、理論の次元での正確さというよりも、その思考の、その都度での、世界との対応関係における正確さなのだ。

非効率的で、非コミュニケーション的ではあるが、何かを考える時、その都度、問題の設定、問題の立ち上げから、繰り返しやり直すしかない。そこでの問題設定や用語は、容易には他人と共有されない。それは、要約が困難であり、汎用性が低いものとなろう。ぶっちゃけ、それは「使えない」ものだ。極端なことを言えば、昨日考えたことは、今日の思考には使えないかもしれないのだ。だから、他人と共有されないばかりか、自分とも共有されないかもしれない。いや、それはちょっと極端すぎる言い方だが。

例えば、イチローのバッティング技術や理論は、イチローという身体の上でしか作動しない。それは、イチローという身体の上で追求され、その身体と共に構築されていった。それを、まったく質の異なる運動能力をもった別の人にそのままコピーすることは不可能だ。競技のレベルが上がれば上がるほど、それぞれの選手が、それぞれの身体的特質や資質に沿って、自らの技術の習得と身体の構築をするしかなくなる。そして、厳密に言えば、昨日のイチローと今日のイチローでは、その身体の有り様は微妙に変化している。だからその技術の有り様も、毎日、その都度微妙に調整され、再構築されなければならなくなる。優れた選手であればあるほど、その調整のやり方も、人とは共有できないものになるだろう。

だが、まったく異なる資質の選手であっても、イチローの技術から何かを盗むことは可能だろう。ある技術体系が、まったく別の技術体系から、何かを受け取るとこが出来る。思考のコミュニケーションの可能性は、(キーワードや問題や理論の共有にではなく)ここにあるように思われる。

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知人が、「糞を投げてくるひとには言葉を」と書いてるひとのブログに遭遇したらしい。上から目線とはこういう標語を指すようだが、言葉を施そうとするとひとはクソを掴んで投げてることが多い。